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【1/3】嫌われたくないと思う意識

会社では「いつも自分に厳しい上司」や「揚げ足ばかりとってくる部下」「なんだか噛み合わない同僚」。

学校でも会話が噛み合わない同級生や話のペースについていけなかったり。

そういった人が周りにいると気が滅入ることがあると思います。

 

「嫌な相手がいれば付き合わなくても良い」と言うわけにもいきません。

会社であれば毎日顔を合わせますし、同じプロジェクトを進めていればコミュニケーションは必要になってきます。

学校でも同じクラスの子なら毎日顔を合わせたりして気を遣いすぎて心が疲れてしまうこともあるかもしれません。

 

最悪の場合、精神科に相談をしなければいけないくらい心の状態を悪化させてしまうケースもあります。

会社や学校以外では近隣住民での集まり、付き合いで何かの会に参加したりすることもあるでしょう。

「アドラー心理学」というのをご存知ですか?僕はそれほど詳しいわけじゃないんですが、【1:2:7の法則】というものがあります。

ちょっと専門的な話になりますが少しお付き合いください。

 

アドラー心理学は対人関係の法則のことですが、【1:2:7の法則】も対人関係の法則です。

 

例えば、あなたの周りに10人の他人がいるとします。

その10人の中で、あなたがトラブルを起こしてもあなたのことを変わらず好きでいてくれる人が1人はいます。

それは嬉しいことなんですが、一方であなたがどんなに良いことをしても、自分のことを「気に入らない」と思っている人が2人はいます。

そして残りの7人は自分がその人たちとどう接するかによって好意を持ってくれたり、持ってくれなかったりする、と言うものです。

 

この教えには科学的根拠があるわけではないそうなんですが、僕は的を得てると思っています。

学生なら学校の同じクラス、社会人なら職場にはどうも気が合わない、反りが合わない人は2・3人程度はいませんか?

そう言う人と今後付き合っていくということは当事者であればできれば避けたいことだと思います。

 

やっぱり気持ちよく学校生活を送りたいですし、仕事にも集中して取り組みたいと思う人が多いはずです。

 

特に日本人は無意識的に「よく思われなきゃいけない」もしくは「嫌われないようにしないと」という意識が働き、その思い込みにとらわれてしまう人は少なくないでしょう。

 

先にも述べましたが、気の合わない人というのは10人のうち2人くらいは必ずいます。

 

しかし「良く思われなきゃいけな」「嫌われないようにしないと」という思い込みが無意識に働き、学校にいるだけで、会社にいるだけで非常に大きなストレスを抱えることになってしまいます。

「良く思われなきゃいけない」「嫌われないようにしないと」という意識が生まれてくる原因は色々あると思います。

 

僕個人の考えで科学的根拠はありませんが、原因の一つに幼児期や幼少期の【親御さんからの愛情】があると考えています。

 

この【愛情】の捉え方は人によっては様々です。

学校や塾でしっかり勉強させることも愛情でしょうし、自由に遊ばせることも愛情です。

 

個人的に考える愛情は、

 

【子供の感情が動く機会を与える】

 

ことが大切だと思っています。

「楽しい」「ワクワクする」「面白い」「なんでこうなってるの?」「もっと追求したい」「安心する」。

こういったプラスの感情が動くことで子供自身の集中力や好奇心、探究心が芽生えるんだと思っています。

 

そしてこういった感情へ導くのが親御さんや教師の愛情なのかなと思います。

もちろん他の方法で導く愛情もありますのでほんの一例です。

 

しかし、感情が動かないとどうなるかと言うと、もっと自分を見て欲しくなったりかまってほしいという気持ちが高まります。

そして、大人が自分を見てくれるような行動をとるようになります。

 

「良い子にしててね」と言うと良い子になろうとします。

しかし、良い子とはどんな子なのかを理解せずに言われた通りのことをするようになってしまいます。

「勉強しててね」と言うと勉強するようになります。

勉強が好きでするのではなく言われたからするようになります。

今上げた例はちょっと極端な例えですが、要は子供時代に好奇心やワクワク、安心するなどのプラス要因で感情が動く経験が少ないことが結果的に、

 

かまってほしい

もっと見てほしい

いい子になるから

 

という反応になってしまい、

 

良く思われたい

嫌われないようにしないと

おとなしくしてる

 

という行動になる気がしています。

これは僕個人が感じていることなので科学的根拠はありませんが、正直そう感じています。

しかし、小さい時からの積み重ねが大人になった時に「お利口な人」として現れてしま生んだともいます。

 

大人になってからの「良く思われなきゃいけない」「嫌われないようにしないと」という意識はちょっとやそっとじゃ変えられないでしょう。

僕自身もまだ周りの顔色を伺ったり良い人を演じたりしてしまう傾向はあります。

 

個人的に意識していることですが、最近は誰に対しても良い人ではなく「この人になら」と思える相手にはできるだけ力を貸すようにしています。

全員に無難にではなく相手を選ぶようにしています。

 

「好かれたい」というよりは「力になりたい」という意識が強いですね。

全員に対して「好かれたい」は、常に周りを意識し続けなきゃいけないので心が持ちません。

だから「この人になら力を貸したい」って思うようにしています。

えこ贔屓かもしれませんが、そんな考えを持つようにすると少しは気持ちが楽になった気がしています。

 

あとは、わからないことや経験したことのないことをもし頼まれたとしても、自分の感情が動かなければできるだけやらないようにしています。

頼まれたことをするかどうかの軸は「感情が動くかどうか」です。

要は自分にメリット(楽しいか、学べるか、応援したくなるか)があるかどうか、そこを判断基準にしています。

 

改めて言うまでもないかもしれませんが、「誰からも嫌われない」ということはまず不可能です。

人それぞれ好き嫌いや個性が違う以上、あなたのことが好きな人もいれば、嫌いな人もいます。

もちろん嫌われるよりは好かれたと思う人は多いでしょうし、僕も基本人には良く思われたいですからむやみに人に嫌われるような振る舞いはしません。

周りに自分のことを嫌いな人が増えてしまうと学校では友達関係が悪くなって学校生活に影響が出てしまったり、会社なら上司に嫌われれば仕事がしにくくなる環境になってしまうかもしれません。

 

一般的に欧米人に比べて日本人は、他者に対して過剰適応の傾向にある人が多いと感じていて、その理由は様々なことが考えられますがその一つに、小さい時からの愛情の欠如による

 

もっと僕を(私を)見てほしい

かまってほしい

 

という意識が過剰に反応した結果、相手の求めることに応えようとする意識く強く出ているいる気がします。

 

仕事においての話しになりますが、仕事上の人間関係は本来利害関係がはっきりしているから、プライベートに比べれば割り切りやすいはずです。

少なくとも、家族との人間関係よりは、仕事の人間関係をうまくやるほうが、難易度は低いと思っています。

 

理由は会社が求めるものを働き手が提供し、働き手は見返りにインセンティブ(報酬や経験など)を受け取る。

互いのメリットがある程度はっきりしているからです。

 

もちろん仕事上の割り切った関係以外にも居心地の良い環境作りのためにコミュニケーションを意識することも大切です。

 

しかし、現実には職場での人間関係を必要以上に悩んでいる人は少なくありません。

それは多分、無意識のうちに「仕事上のお互いのメリットや利害関係」以外に、

 

もっといい関係を築かないといけない

ということを意識し過ぎてしまっているからかもしれません。

 

もちろんそれが苦にならない人もいるので一概にはいえませんが、コミュニケーション過多になって、【関係性作りを辛く感じる人もいる】ということを多くの人に、特に経営者やリーダー、教師の方々には知って頂きたいです。

 

好きではない人や嫌いな相手に対して、逆に自分からすり寄っていったり、相手を持ち上げたりする人もいます。

これを心理学的には「反動形成」と呼ばれていて、自分の中にある相手に対する怒りを隠すために、自分の本心とは反対の言動を取ると考えられています。

反動形成が起こっている人の心理にはいくつかパターンがあり、「嫌っている」という気持ちを相手に気づかれることが怖くて過剰にサービスする、という人もいれば、「誰かを嫌うという気持ちを持っていること自体を認めたくない」という心理の人もいます。

 

いい人でいたい

人を嫌う自分を認めたくない

 

反動形成にはこうした心理があると考えられていて、この反動形成のほとんどは、自分でも気づかない無意識な行動であったり当事者に自覚があまりないのも特徴です。

 

だから、相手のことを嫌っているという自分の本心には気づけないまま、相手が求めてくることに必要以上に応えようとしてしまいます。

必要以上に残業をしてしまう行為もこの反動形成が関係していると考えています。

反動形成の背景には小さい時からの「もっと僕を(私を)見てほしい」「かまってほしい」という心理からくる「過剰適応」というものが大きく関係しているかもしれません。

 

こうした傾向を持つ人に必要なのは、

 

嫌われても大丈夫!

自分はやっていける!

 

という、ある種の「根拠のない安心感」が必要だということが言えると思います。

 

ただ、これを身に付けるのは過剰適応の傾向を持っている人にとっては、それなりに難しいハードルだとも考えています。

 

例えば「あの人に嫌われても大丈夫。他のみんなが君を嫌っているわけじゃない」と言われたところで、潜在意識に染み付いてしまった「嫌われることへの恐怖心」はそう簡単に払拭することはできません。

 

人に依存しすぎないメンタルを身に付けるための1つの方法として、【自分の得意なこと】をどんなことでもいいので1つは持っておくと効果的だと思います。

 

この「自分の得意」や「人に負けない何か」は、仕事と直接結びついている必要はありません。

むしろ、仕事とまったく無関係なもののほうが、かえってメンタルの支えになることがあります。

これは社会人以外でも学生でもどなたにとっても大切なことだと思います。

 

僕の場合、動画制作を25・6歳の頃から41歳の今まで約15年ほどやってきましたが、商業映画や大きなポジションを経験したわけではありません。

しかし撮影や編集を長年やってきて「これから動画を始めたいけどどうすればいいかわからない」といった方や「ちょっと編集で力を貸してほしい」といった相談には答えられる自身はあります。

 

大きな経験ではなくても自分の力を必要とする人がいて、僕の力を提供できることが心の支えや自信になっているんだと思います。

 

このことからわかるのは、何かに没頭したり時間をかけて取り組んだ経験がある人は、【自分の心を支える力を見つけられる人】なのかもしれません。

趣味の世界でも結構ですので、そういう「自信があるもの」を1つでも持っておくと、誰かから嫌われたり、いじめられたりすることがあったとしても、そうした困難を乗り越える力、ある種心の拠り所になることがあると思っています。

 

「承認欲求」という言葉はご存知の方は多いと思いますが、この「承認欲求」というのは「自分を認めて欲しい」という自分の願望です。

 

自分自身の心から出てくる欲求のことです。

 

「他人が自分のことを認めている」ということが分かっているからこそ、心が落ち着いていきます。

 

しかし、それは裏を返せば「他人があなたのことを認めてない」ということを知ってしまった、もしくはそう思ってしまった瞬間に「認められていない」という不安になり、「良く思われよう」という意識が生まれてしまう可能性があります。

 

他人に認められたい

 

という意識ではなく、

 

自分で自分を認める

という経験をする必要があります。

誰かに依存するのではなく、自分が自分のことを許す、または「それでいい」と自分自身が認める。

 

【他人】ではなく【自分】を見つめるような意識の変化が必要かもしれません。

 

「これだけは自信がある」「人に負けない」といった【得意分野】を1つ作っておくと承認欲求が満たされ、他人の目を気にせずにいられる。

 

そして安心感が育まれてくんだと、個人的には思います。

【2/3】空想することの意味

画家でもある安野光雅氏の本、「空想犯」を考察されたサイトの内容を基にお話します。「空想犯」の冒頭にはこう書かれています。

 

「空想は事実の世界に足をつけて、虚構の世界を空想し、その虚構が本当だったとしたらどうなるだろう、と考えることである。つまり、科学は一見非科学の空想が土壌である。」

 

と言われています。

僕は科学者でもなければ何かに秀でた能力を持った人間でもありません。

この言葉から推測できることは、科学という物質の現象を研究する上で重要なことは、

 

頭の中だけの世界がもし本当になったら?

 

ということなのかもしれません。

何が起こるかわからない、逆に何も起こらないかもしれない。

それでも好奇心を持って追求することは大事ですが、「見えない物を想像する」からこそ、そこにワクワクを見出し、この空想を実際に起こせるかどうかを研究し続けているんだと思います。

 

研究者のような職の方々が空想することと、子供が空想することは、はたから見ればまったく違うように見えるかもしれませんが、やっていることはどちらも同じ「空想」です。

 

大人か子供かの違いで、どちらも興味関心の赴くままに空想しているだけなんじゃないでしょうか。

 

大人になると経験をもとに空想するのかもしれませんが、子供はまだ経験も少ないので、経験に縛られない自由な発想で空想を展開させている可能性は高いです。

その点で言うと子供は本当に感情の赴くままに空想しているかもしれません。

 

この「空想力」とは「創造力」とも言い換えられます。

 

見えない物を想像するという意味では同じです。

最近では「AIに置き換えられない人間の価値」という議論や話を時々聞いたりしますが、「人間の価値」をテーマにした内容でも僕が重視してるのは「想像する力」です。

 

AIは、人間がこれまでやっていた単純作業を機械が代替し、そして人間の仕事が奪われるようになっていくと言われています。

この単純作業とは、例えばベルトコンベアに流れる商品を発送地域ごとに選別する作業などはすでに自動化されつつあります。

元々は人間がこの作業をやっていました。

コンビニのレジの精算も自動化されていき、店員の仕事自体が減っていっています。

 

この「AIに仕事が奪われる」とは、表現が安易なのでもう少し具体的に言うと、「今までやっていた仕事の形が変わる」の方が個人的にはしっくりきます。

 

社会が急激に変化している状況で人間が力を発揮する方法は、いくつかあると思います。

 

1つ目は、「見えない物を想像する」こと。

2つ目は「楽しめること」。

3つ目は「直感」という根拠のない自信でしょうか。

 

この「直感」というのは、過去の経験を元に自分が導き出した答えです。

いろんなことを経験し、見てきた、聞いてきた、感じてきたことの結果が「直感」として表現されているので、当てずっぽうとは違います。

言葉では表現することが難しくても、直感には必ず本人の経験が含まれています。

 

また、時代に応じて必要な力(得意・スキルなど)は変わっていくと考えています。

 

「好き」を追求していくと「面白いことを空想する」ということが自然と身についていくと思いますが、逆に「好き」を追求しないと結局目の前のことしか見れなくなったり、感情の揺れが少なくなってしまうかもしれません。

ではこの空想力によって何が身につくのか、いくつか出してみます。

 

 

【1】思いやり

 

空想力を使って「ごっこ遊び」などをすると、お芝居のように自分以外の誰かの役になりきります。

例えば「ヒーローやヒロインになって誰かを助ける」「人間以外の動物になってみる」など。

そうすることで、

 

ヒーローになって誰かを助けると、ありがとうと言われる

動物はこんなことをされると嬉しくなる

など、何かになり切ることで色々な感情を考える気づきにつながります。

この時、親御さんが

 

こういう時ってこの人はどう思うのかな?

こうしたらもっと嬉しくなるかもしれないね

 

などと色々な感情に気づくためのアドバイスをすると、相手のことをより想像したり思いやる力が養われます。

 

 

【2】体系的思考

 

空想力がある子どもは、例えばスーパーで果物があった場合、その生産者や調理法や売っているお店など、さまざまなことを疑問として親に投げかけたりします。

 

これなに?

なんでこうなってるの?

どこからきたの?

 

こういった疑問に思う力は、物事の情報を分析・分類して解決しようとする体系的思考を養うことにつながります。

 

なにより気になっているからこそ質問をしてきます。

「気になる」という感情が物事を追求する心の現れです。

親としては、子どもに質問攻めにされるのは大変だと思いますし、何度も聞かれてイライラしてしまうこともあるかもしれません。

 

しかし、子供の空想力を向上させて大人になってからも物事を追求する力を身につけるためには大切な過程です。

 

無理しない程度で、できる限りでいいと思います。

子供と向き合いながら、わからないことは一緒に考えてみてください。

 

 

【3】伝える力

 

子どもが頭の中で思い描くストーリーを親御さんに話すことは、自分の考えを相手に伝えているという意味でもあります。

 

話す内容はまだ理解しにくい部分があるかもしれませんが、子どもが自分の空想を言葉で相手に表現することが大事なので、子供の言葉に耳を傾けてあげてください。

 

内容についての質問をしてみるのもいいと思います。

そうすることで空想を更に膨らませ、自分の意見や考え方を相手に伝える表現力や「どうやったら伝えられるか」というプレゼン的なスキルの向上につながります。

次に、子供が空想力を身につけるために、周りの大人が何を気をつければいいのかを出してみます。

 

 

【1】子どもの空想を否定しない

 

時に子どもは、残酷で暴力的なシーンを空想をすることがあります。

親御さんとしては心配になるかもしれませんが、それを「やめなさい」と頭ごなしに否定してしまうと、子どもは空想すること自体を楽しめなくなってしまいます。

 

頭ごなしに否定するのではなく、残酷さや暴力がネガティブな感情をもたらすことを教えてあげることが大事です。

 

例えば、誰かを叩いたりいじめているような空想をしている場合、

 

もし〇〇ちゃん(空想してる本人)が叩かれたら、○○ちゃんは痛いかな?

嫌な気持ちになるかな?

 

と、自分がされた場合を想像させるような問いかけをします。子どもが良くない空想をしていた場合、物事の善悪を教える

 

【ちょうどいい機会】

 

として捉えれば、子供が成長するきっかけかもしれません。

 

 

【2】大人ならではの空想で一緒に遊んでみる

 

「子どもの空想」が大人にとっては思いもよらない内容であるのと同じように、「大人の空想」は子どもにとって新鮮なものだと思います。

 

子どもが空想のストーリーについて教えてくれたり、ごっこ遊びに誘ってきた時には、ただ子どものペースに合わせるのではなく、親御さん独自の空想で対応してみるのも面白い効果があると思います。

 

大人ならではの空想は子どもにとっては意外なものであり、大きな刺激になることがあります。

逆に「何それ何それ!」と面白がってきたらこっちのペースに巻き込んで一緒に楽しんでしまいましょう。

 

「空想ごっこ」みたいですが、楽しんで空想できることが没頭になり思考の幅を広げることにつながるかもしれません。

【大人のペースに巻き込む】工夫をしてみて、時には大人も子供も一緒に空想を楽しみましょう。

 

 

【3】空想を絵本にしてみる

 

子どもの空想を絵本にしてみるのもいい効果を生むと思います。

子どもが絵を描く担当で、親御さんが文章を書く担当をする。

文章は子供と一緒に「○○ちゃんはこの時なんて言ってるのかな?」という感じで話ながら物語を進めていきます。

 

そうやって1冊の絵本を作り上げていきます。

 

空想上の物語を絵として表現する作業は、自分の頭の中だけの世界が物体として現れるので、宝物のような感覚を抱くかもしれませんし、自慢したくなるかもしれません。

 

なにより親御さんと一緒に作ったという共同作業はお互いの絆を深め、思い出になり、子供は親御さんからの【愛情】をすごく感じるでしょう。

また、表現力や空想力アップにも有効です。

 

次に、空想力はどんなタイミングで養われるのかです。

 

【1】空想の時間を確保する

 

このテーマの冒頭にも書きました安野光雅氏の本「空想犯」で、「空想の時間」というものが紹介しました。

そしてこれを実践したのが宮沢賢治です。

 

宮沢賢治が岩手県の花巻で教師を務めていたた時、「空想の時間」といって、生徒たちに頬杖をつかせ、何を考えてもよい時間を作ったそうです。

空想をするには周りが静かであることがとても大事です。

いろんな物音や話し声がするだけで集中力や注意力が散漫になってしまうので、じっくりものを考えて空想にふける時間を持つためには、自分の世界に入るための静かな環境が大切です。

 

また、人が生活をする空間には3種類あると言われています。

 

 

【自分と知らない人(その他大勢)がいる空間】

(電車の中や街中など)

【自分と知っている人だけがいる空間】

(学校や職場、家庭など)

【自分だけの空間】

(自分以外は誰もいない)

この3種類です。

 

空想するのに最も最適なのが、【自分だけの空間】です。

誰にも邪魔をされずに自分の空想の世界に行くことができます。

 

次に空想しやすいのが【自分と知らない人(その他大勢)がいる空間】です。

周りに人がいても誰も自分のことを知らないので、誰かから声をかけられると言ったことも基本ないので、他者を意識することもなく何かを考えることができます。

 

空想に不向きなのが【自分と知っている人だけがいる空間】です。

これは意識する対象が近くにいるので、空想や集中がしにくい環境です。

慣れてくれば意外にいけるのかもしれませんが、会社はまさに集中できない空間となっているかもしれません。

 

何が言いたいのかというと、空想できない空間で空想しようとするのではなく、「自分はどこにいると空想や集中できるのか」を知っておくといいかもしれません。

 

ちなみに僕は、夏は週に2・3回は家の近所の運河(物資を運ぶ人工の河)沿いを夜11時か12時頃に1時間程度プラプラと目的をもたずに歩きます。

夜なので人もほとんどいなく、気温も下がってきて街灯の明かりだけなので気持ちも落ち着き、そこで取り止めもなくいろんなことを空想したりします。

 

声を出して独り言をいうと頭の整理ができますし、自分の気持ちと対峙する時間にもなっています。

 

もうだいぶ前(多分7・8年以上前)からやっていると思いますが、はたから見ると怪しい人です笑。

 

夜歩きながら独り言を言うときは気をつけましょう。

 

 

【2】読書は空想の宝庫

 

読書は、物語や出来事を読み進め頭でイメージを思い描くことがあります。

見えない物を空想するのに読書はやはり大事で、自分の関心のあるジャンルの本を選んで、好きな時に読むことが大切です。

「読まなきゃいけない」と言う理由で読んでしまうと強迫観念にかられてしまうため、読書に抵抗感を感じてしまいます。

子供時代は自由に読みたいものを読み進めることがいいと思います。

 

まだ年齢が8歳や10歳くらいならまだイラストや絵があると読み進めやすいかもしれませんが、中学生くらいからはイラストは少なめの本で、文章から世界を膨らます経験は大事になってきます。

 

文章から、リアルな状況や風景を、本の世界を思い浮かべるだけでなく、登場人物や著者の心情、何を伝えたいのか、どんな人物なのか、そういった思いを想像することにもつながります。

読書は、単に知識や情報を得る手段だけでなく、人間形成の方法のひとつになるとも言われています。

読むことで本の中の世界が自分の頭の中にひろがり、大量の文字の連続が次第に何かを伝えるものとなり、読んだ人の心を動かすものへと変わっていきます。

 

本を読むということは、その本の世界をある種擬似体験できます。

ひとりの人間が一生の中でできることや行ける場所、経験できることは限られていますが、本を介することによって、人は自分以外の多くの人の人生を覗き見ることができます。

 

本の中で筆者や登場人物が体験していること、行っている場所、考えていることを体験することが、本来一人では得られない知識や経験の幅をひろげることになります。

 

そしてイメージしたことのない世界を空想して、新しい視点やものの見方が養われていくんじゃないでしょうか。

最後に、空想する時間を奪うものが何かを知っておいてください。

毎日様々な情報が発信されているこの社会では、

 

見なきゃいけない

知らなきゃいけない

という強迫観念が生じて、空想する時間が減っていってしまう社会構造になっているかもしれません。

 

空想の時間を確保するには、時間を奪うようなものはできるだけ遠ざけるようにすることが肝心です。

「テレビ・スマホ(電話)・ネット」 は特に情報が入ってくるので空想からは遠ざかってしまいます。

 

インターネットやスマホは小さい時から「情報を得る体験」「調べる癖」としてはいいツールだと思いますが、情報を得るための工夫や試行錯誤が抜け落ちてしまうので、僕自身もまだなにが良いのかはわかりません。

 

「自力で調べる」という過程の中には工夫をする意識や、探しものを見つけるまでの間にいろんなことを考えます。

 

答えに簡単にたどり着くより、自分なりに工夫して答えにたどり着いた方が過程で得る経験が加わります。

 

検索したりすぐに人に聞いたりして簡単に答えを得てしまうと、最後の答えしか得るものがなく、過程から得る経験を奪うことになり、とてももったいないなと個人的には思っています。

 

自分で問題を生み出し、そしてその問題自体に自力でたどり着くこと、【そのすべてが空想の時間】です。

 

この繰り返しの中に、新しい発見やこれからの時代を生きる力があるんだと思います。

 

子供は、空想した後で突拍子もないことを言い出したりすることもあるかもしれませんが、ちゃんと自分の世界を空想している証拠です。

 

この空想から新しい発見やワクワクする気持ちが生まれ、好きなことを見つけられるかもしれません。

それを突き詰めることができれば、誰にも負けない唯一の特技になるのかもしれません。

 

誰かと勝ち負けを争うのではなく、自分の好きを追求することが大人になった時の誰にも負けない力になると、僕は確信しています。

【3/3】教育の変遷

最初に、僕個人の考えや気持ちは一切抜きにして、歴史上の事実をお話しします。
まずはめちゃくちゃ硬い話からですがお許しください。

僕は教育の専門家でも何でもないので、参考になるwebサイトの情報をもとにお話しします。実際に教育がどんな経緯で移り変わってきたのか、ものすごく端折りながらお話します。参考サイトは本書の最後に記載します。

教育の変遷のイメージだけでも伝われば幸いです。

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▼江戸時代から明治時代


江戸時代に広まっていた「寺子屋」という子供たちが学ぶ場がありました。
「読み書き」「そろばん」など実学を教えていて、学年や年齢での区別はなく複数の学年が一緒に学び、生徒同士の「教え合い」も日常だったそうです。

「できる子」が「できない子」を教えるのは普通のことで、実は一方的にただ話を聞くよりも、学んだことを「人に教える」「伝える」ことが、最も知識が定着したり深い学びにつながるのは、よく知られていると思います。

そして寺子屋に学びにやってくる子供たちには一人一人にあったカリキュラムを作る個別教育を行っていたと言われています。
「寺子屋」において、先生はいわばファシリテーターの役目だったのかもしれません。

そして明治に入り、文部省は明治五年に「学制」が全国に公布され、小学校から大学校に至る教育制度の確立が行われました。

寺子屋はマンツーマンの「個別教育」からクラス単位の「一斉授業」となる公立小学校へと変わっていきました。

この寺子屋ですが、江戸期には全国合わせて数万もの寺子屋があったと記録されています。
「学制」の導入で全国の寺子屋が一斉授業スタイルへ変えることになったようですが、授業料の支払い能力や授業時間の制約などで通う生徒が減ったため、小学校の数は寺子屋の数よりも実際は少なくなったようです。



▼戦前から戦後

戦前と戦後で教育の在り方は大きく変わりました。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏をし、日本を占領した連合軍総司令部のGHQは、日本政府に対して「四大教育指令」と呼ばれた命令を発布しました。

学校教育と国家神道の結びつきを断ち切るための措置が取られました。

その翌年にはアメリカ教育使節団が日本に渡来して、男女共学や、教育の地方分権化などを骨格とする報告書をGHQに提出し、これが戦後の教育改革の柱となりました。

日本は5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなどの【複線型】の教育を行っていましたが、これを機に「6・3・3(小学校6年、中学3年、高校3年)」の【単線型】の学校教育制度が導入されました。アメリカをモデルとして単線型となったのは大きな変化です。

少し解説します。

単線型学校制度とは、小学校や中学校の段階は修業年限や学習内容も共通で、高等学校においても修業年限では他に選択肢がない(=単線)学校制度。

これに対して、複線型学校制度とは、小学校や中学校の段階から、異なる修業年限、学校種が併存している(=複線)学校制度。
主に進学型か就職型かという違いによって分かれるようです。
このアメリカモデルをそのまま日本に導入してしまったが故に、どんな成長を遂げるかわからない時期の子供たちを偏差値や学年で階層分けをし、一定のラインを超えない子供を落ちこぼれとして判別してしまう問題が起こりました。

それまでの教育は5年制の「複線型」教育だったので個人の意思をある程度は尊重しやすい教育でした。

5年制の旧制中学から医学専門学校に進めたり小学校から実業学校で学ぶことができたりするなど自分で選べる構造になっていたのが「複線型」の特徴です。
(当時は今以上に選択肢が少ないこともあり、どこまで個人の意思を尊重できたかは不明です)

しかし、戦前と戦後ではこの教育システムの変更により、明確な階層分けが生まれ、偏差値や目に見える数字などで判別されるような仕組みに変わってしまいました。
学習のスタートの平等生は担保されましたが、ついていけない子は落ちこぼれ扱いされ、その後の人生にも大きな影響を与えました。

しかし、アメリカ教育使節団(第二次世界大戦後、占領下日本の教育再建のため、連合国最高司令部(GHQ)の要請に基づいて、アメリカ政府から派遣された使節団)は元々「個性尊重」をうたっていたそうです。

教育使節団は2回派遣され、1回目の報告書を連合国最高司令官に提出しましたが、その報告書の序論ではこう書かれていたようです。

「教師の最善の能力は、自由の空気のなかにおいてのみ十分に現される。この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくることではない。子供のもつ測り知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。」

アメリカ自由主義の教育理念を中心に据え、教育の近代化についての諸提案を行った際の内容が書かれていました。

アメリカと同じ単線型教育になったとは言え、アメリカ教育使節団の考えとは異なり、日本は個人の意思の尊重ではなく画一化、偏差値重視や知識習得を中心にした教育に進んでしまったようです。

単線型になった背景やアメリカ自由主義の教育理念が日本に浸透しなかった理由まではわかりませんが、現代にも大きく影響を与える結果となるターニングポイントになりました。


教育を何とかしないと
教育を変えよう!



と思うことは個人の自由ですが、今の教育だけを見るんじゃなくて、過去の教育の移り変わりを知ることが、現代の教育に活かせる何かを見つけられるかもしれません。

もし教育に興味が湧いてきましたら、ぜひ調べてみてください。